村木局長無罪、前田主任検事逮捕に思う。

石井 逸郎

2010年9月22日

 2010年3月末をもって、第二東京弁護士会副会長を退任した。副会長のときは、刑事弁護委員会、裁判員裁判実施推進センター等を担当し、昨年施行された裁判員裁判と対象事件が全面的に拡大された被疑者国選弁護制度の円滑な実施に尽力したが、定着のためになお為すべき課題は多い。そんなわけで、4月以降も、第二東京弁護士会刑事弁護委員会委員長の任を授かっている。

 さて、裁判員裁判の施行を機に、刑事司法の姿は大きく変わりつつある。

 第一に、捜査機関が密室で作る取調調書に依存して行われていた裁判から、法廷(公判)での裁判員を前にした取調べを重視する裁判に変わりつつある。これは、同時期に、足利事件等いくつかのえん罪の事実が明らかになった影響も大きい。足利事件は、当時まだ精度の低かったDNA鑑定の結果をうのみにした捜査機関が菅家さんに虚偽の自白を強要し、この自白調書が根拠となって、菅家さんを無実の罪で17年間も拘束することとなった。最高裁ですら、この自白調書の虚偽を見抜けなかった。

 しかし裁判員裁判になると、例えば水戸地裁で、殺人罪の起訴に対して裁判員が、殺害時の心理状況を事細かに物語のように述べている自白調書は捜査機関の作文の恐れが強いとしてその信用性を否定し、公判での証言を重視して殺意を否定し、傷害致死罪にとどまると判断した例が生まれている。

 第二に、刑事司法において、市民感覚、市民目線を意識するようになった。ともすれば、業界人だけで通用する用語で行われ、市民や被告人からするとさっぱりわからない裁判が、わかりやすさを意識するようになった。足利事件では、再審無罪を前に、検察当局は菅家さんを釈放し、宇都宮地方裁判所は無罪判決の際、裁判官3名は立ち上がって、言わば法曹界を代表して菅家さんに謝罪した。こんなことは考えられなかったことだ。

 第三に、「疑わしきは被告人の利益に」(=推定無罪)という刑事裁判の本来の原則が、原則として扱われるようになりつつある。というと、意外に思うかもしれないが、これまでの刑事裁判は、有罪率は99%を越え、検察の起訴を裁判所が無罪とする例はほとんどないといってよく、単に追認する儀式に過ぎなかった。つまり、推定有罪が原則だった。しかし、裁判員を前にして、本来の原則から外れた運用はできない。検察の立証が足りていないと判断すれば、無罪判決を下さなければならない。千葉地裁の覚せい剤の密輸事件の無罪判決もそうだったし、押尾事件についても裁判員は、事前のマスコミの報道にも左右されることになく、真摯に証拠に向き合い、被害者の死亡との因果関係を否定した。

 そうした中、昨日(2010年9月21日)、検察当局が、厚生労働省の村木局長の汚職事件の無罪判決に対する控訴を断念するとともに、この事件を担当した前田主任検事を証拠隠滅の容疑で逮捕した、とのニュースが列島をかけめぐった。

 大阪地検特捜部のエースとも言われた、前田主任検事のデータ改ざんというニュースに、恐怖を感じた人は多いだろう。

 しかし私の実感では、ここまでの悪質な証拠改ざんはないだろうが、検察にとって都合の悪い証拠を隠すなどのケースはこれまでにも普通に為されてきたことである。

 むしろ、これまでの検察当局なら、こうしたケースも、何とか組織内でもみ消そうとしたのではないだろうか。そうではなく、組織としての膿をこの際出そうと検察当局が考えたのであれば前進であるように思えた。裁判員時代、いい加減なことは許されない。この際、前田検事個人の犯罪なのか、大阪地検の組織ぐるみの犯罪としての可能性はないのか、しっかり検証する必要がある。

 この事件では、検察当局が強引に取調べした関係者の調書の証拠能力を多数否定し、無罪判決を導いている。密室調書の信用性に、裁判所も疑義を感じつつある。

 裁判員を前にして、検察官も、裁判官も、そして私たち弁護士も、いい加減なことはできない。裁判員裁判がテコになって、これまでの刑事司法の古い部分が明らかにされつつある。